2024年の年末、福岡県北九州市のとあるファストフード店で、誰もが耳を疑うような事件が起きました。
中学3年の男女2人が刃物で襲われ、一人が命を落とし、もう一人は重傷。その後、逮捕された男が「心神喪失の可能性がある」と報じられたことをきっかけに、SNSやメディアではさまざまな声が飛び交っています。
「責任がないってどういうこと?」「無罪になるの?」そんな疑問や戸惑い、時に怒りにも似た感情が多くの人の間に広がったのではないでしょうか。
今回は、この事件を入口に「心神喪失と刑事責任」について、できるだけ身近な言葉と具体例を引用しつつ掘り下げてみたいと思います。
「責任能力がない」とはどういうことか
ニュースなどで「責任能力がない」という言葉を見かけることがありますが、正直、ちょっと分かりにくいですよね。
ざっくり言うと「その人が“やったこと”が、良いか悪いか分からない状態だった。あるいは、分かっていても止める力がなかった。」ということになります。
こういう時は、法律上「責任を問えない」と判断されることがあります。これが「心神喪失」と呼ばれる状態です。心神喪失とは単なる“病気”ではなく、その人の意思や判断能力が一時的に、あるいは継続的に深刻に失われていた状態を意味します。
法律ではどう書かれている?
刑法にはこんな条文があります。
刑法第39条第1項:心神喪失者の行為は、罰しない。
刑法第39条第2項:心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
「罰しない」とはつまり、無罪です。
ただ、これは「許される」という意味ではなく「責任能力がないので刑罰を科す根拠がない」ということです。医学と法の境界線で決まる非常にデリケートな判断になります。
現場では、精神科医や心理学者などの専門家が、詳細な鑑定と報告書を作成します。
じゃあ誰がどう判断するの?
事件が起きたあと、被疑者が精神的な問題を抱えている可能性がある場合、裁判所の命令で「精神鑑定」が行われます。その結果をもとに、
- まったく責任が問えない(心神喪失)
- 一部は問える(心神耗弱)
- 問題なし(完全責任能力)
という3つの分類がされます。とはいえ、これは白黒はっきり決められるような単純な話ではなく、鑑定結果が分かれることも少なくありません。
さらに言えば、鑑定は1回ではなく複数回行われることもあり、専門家の意見が真っ向から対立するケースもあります。その場合、最終的な判断を下すのは裁判官です。証言、行動履歴、動機、供述の変遷など、さまざまな角度から責任能力の有無を見ていきます。
過去の裁判ではどうだった?
ここでは、実際の判決で見えてきた「傾向」を少し紹介します。
- 事件当時、強い妄想に支配されて現実との区別がついていなかった場合、心神喪失とされることがあります。
- 一方で、たとえ精神疾患があっても、計画的な準備や逃走などが確認された場合、「責任はある」と判断される例も。
- 裁判官は、医師の意見に加えて、行動の一貫性や発言内容なども総合的に見て決めています。
現在の裁判実務では、責任能力の判断において「その人が社会的にどんな行動をとっていたか」が重視される傾向にあるそうです。
「無罪=自由の身」ではない
ここまで読んで「え、じゃあ加害者はそのまま社会に戻されるの?」と感じた方もいるかもしれません。でも実際にはそうではありません。2005年から「心神喪失者等医療観察法」という制度があり、無罪になっても、
- 専門病院への長期入院
- 通院しながらの厳密な治療
- 再発防止の支援プログラム
といった医療と保護の体制が整えられています。
LINK:心神喪失者等医療観察法|厚生労働省
この制度は、単に「治すこと」を目的とするだけでなく、社会的なリスクの管理や、再犯防止を制度として設計している点で重要です。実際にこの制度の下で処遇された人の再犯率は、一般的な出所者に比べて低いというデータもあります(法務省・厚労省資料より)。
法と感情のあいだで
ただ、どれだけ理屈で説明されても「奪われた命」に対して誰も処罰されないという事実は、簡単に受け入れられるものではありません。
一方で「誰かを罰する」ことと「その人に本当に責任があるか」は、分けて考えなければならない。これは法律の冷たさではなく、人間の理性の証でもあるとも感じます。
だからこそ、今ある制度を「感情で否定する」のではなく「どうすれば納得できる形に近づけられるか」を社会全体で考えていく必要があるのかもしれません。
これからの課題
今の制度が完璧かと言えば、もちろんそんなことはありません。たとえば、
- 精神鑑定がどこまで正確か
- 遺族のケアが十分か
- 社会復帰への道筋はどうするのか
- 責任能力の「グレーゾーン」をどう扱うか
また、報道のあり方も重要です。「精神障害者=危険」といった偏見を助長することなく、正確で冷静な報道が求められます。心神喪失という制度を誤解のまま放置すれば、本当に保護が必要な人が支援を受けにくくなり、結果的に新たな悲劇を生む可能性もあります。
まとめ
心神喪失と無罪というテーマは、法と感情のあいだにある、答えの出ない問いを私たちに投げかけてきます。法律が守ろうとしているのは「理性のある社会」であり、同時に、被害者や遺族の苦しみも決して置き去りにしてはいけません。
「心神喪失だろうが人を殺したという事実に違わないから厳罰を与えるべき」…わかります、私もそう思います。「自分が被害者になったときに本当にそう思えるのか」…思えないです、絶対に。ただ、だからと言って単純に切り捨てるのは、人としてあまりにも理性のない話だとも感じます。矛盾していますが、法の理屈と感情はときに交わらないのです。
どちらか一方に寄りすぎることなく、私たち一人ひとりが「正義ってなんだろう」と考え続けること。それこそが、こうした制度をより良くしていく力になるのではないかと思います。
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